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信長公の首塚と足跡

2014年03月26日掲載

(1)西山本門寺概要

日蓮聖人第7百遠忌記念に日蓮宗が発行した「日蓮宗事典」によれば、西山本門寺は、康永2年(1343)に日代上人により開山され、富士山と号したとされている。
西山本門寺の開山より45年前の永仁6年(1298)日代上人の師・日興上人が富士郡北山の地に本門寺(北山本門寺)を開山した。その45年後、先述のとおり、日代上人が、西山に本門寺を開山したため、北山と西山に本門寺が両立することになった。
紆余曲折を経て天正年間には、当地で最大勢力を誇っていた武田勝頼の庇護を受けていた西山本門寺も、同10年の武田家滅亡後は、徳川家康から諸役免除の朱印を与えられ、徳川家の庇護を受けるようになった。
安政2年(1855)10月の大地震に遭って本堂、御影堂、垂迹堂などが倒壊し、諸堂また大破したが、その後復興に努め、現今本堂、宝蔵、鐘楼、総門等がある。

西山本門寺本堂

(2)西山本門寺と織田信長公首塚の云われ

この西山本門寺と信長公との結びつきは、古くから地元では信長公の首塚が本堂奥の大柊のもとに安置されているということが口伝としてあった。 その根拠となったのは第18代・日順上人の内過去帳の旧暦6月2日の『惣見院信長』の記述で、以来、寺では歴代上人の口伝で信長公を供養してきた。 また近年では、昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の記事と平成12年1月発行の「歴史街道」で作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」が紹介され、 信長公の首塚が再びクローズアップされてきた。
昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の研究で特筆される事項として、第18代・日順上人(1602~1688)の内過去帳を骨に、日順—本因坊算砂—信長のかかわりを割り出し、 西山本門寺を舞台にした近世初期の埋もれた歴史を展開している。ここで重要な役割を果たすのが、本能寺の変で信長公と一緒に死んだ原一族が残した「原家記」。原志摩守が混乱の中から父と兄、それに信長公の首を持ち出し、山道伝いに駿河にたどりつき、 富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めたと記されていると説明。この西山本門寺には「信長の首塚」が代々ひそかに言い伝えられ、山口さんは先代貫主日光上人から直接この伝承を確かめるとともに、状況証拠となる過去帳を見つけた。と記述されている。
日順上人は「原家記」を残した原一族の出で、同寺復興のため、朝廷・公家の支持を得て江戸幕府相手に寺格復権の大運動を繰り広げた傑僧。しかも原一族は西山と仏縁があると記載されている。もう一人の人物本因坊算砂(日海)は、 京都寂光寺本因坊の住僧で同寺は京都妙満寺を本山とする日蓮宗什門派の寺。妙満寺は日什上人の開山。その日什上人は富士郡の生まれで、最初富士門徒で修行したが、転じて一派を立て、京都においても富士門徒要法寺とは親しい交渉を持っていた。 その要法寺の広蔵院日辰が弘冶2年(1557)から再三、富士門徒合同のため、「本因坊日秀」を同行、西山を訪れていた。算砂(日海)は日秀の二代目とされ、西山と算砂をつなぐ糸は早くから張られていたと立証している。
また、作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」の中で、寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守が本因坊算砂の指示によりこの寺に運んで供養したのだという。 変の前夜に信長が算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていたことはよく知られているが、算砂は翌朝まで本能寺に留まり、戦乱に巻き込まれたのだろう。そして信長の死を知り、旧知の原志摩守に首を西山本門寺まで運ぶよう命じたのだ。と説明している。 二人にとってこの寺がなじみ深いものであったことは、算砂が本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいたことや、原志摩守の子、日順を弟子とし、寺の第18代上人としていることからもうかがえる。とも記述している。この日順上人こそ、 常子内親王に働きかけて後水尾天皇夫妻の位牌を安置させた張本人なのである。寺には日順の自筆過去帳があり、それには『天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅』と記されている。誅するとは、一般的には上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉である。 日順上人は慶長七年(1602)の生まれだから変の当事者ではないが、師の算砂から事情はつぶさに聞いていたはずである。
上記、山口氏の研究結果と安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」で、共通点が多く記述されており、古くから本門寺および西山周辺で口伝されていた信長公の首塚が一つの線で結ばれたことが証明された。

黒門

(3)信長公の足跡から

西山本門寺と朝廷、信長公、その後の徳川幕府との繋がりなどを調べていくうちに、担当者として推察であるが、信長公の軌跡から西山本門寺の首塚の口伝は真実味が充分に考えられる。
信長公記(しんちょうこうき)は、信長公の家臣である太田牛一(1527~1613)が記した記録であるため、その信憑性は現代の学者により評価が様々であるが、当時の信長公の記録を代表する記録である。この信長公記によると、信長公は天正10年(1582)3月10日安土城を出発し、諏訪・甲府の戦後処理を終え、同年4月21日に安土城に帰陣している。
この約1ケ月におよぶ東国巡回は、織田軍の甲州征伐の工程で、総大将は嫡男信忠であったので、自身は後方からゆっくり進軍したとされる。3月7日に信忠は甲府入りしているが、信長公が安土城を出発したのは3月10日であり、このことからも、信長公は戦勝後の論功行賞が主な目的であり、長年恐れた武田家滅亡の凱旋紀行であったことが伺える。
日本地図で見ると明確であるが、それまでの信長公は、現在の愛知県や岐阜県、滋賀県といった、中部、近畿が主な行動範囲であり、それ以上の遠方に足を運ぶことがなかった。しかしながら、征夷大将軍は字の如く、東夷を従える、つまり東国を支配している必要があり、初代征夷大将軍であった源頼朝公は東夷を従え、打倒平家の挙兵をしており、また統一後も富士の巻狩りと呼ばれる大軍事演習を富士の麓で実施している。したがって、この甲州征伐には、武田家滅亡後の事後処理だけでなく、権威拡張に向けた巡回であり、天下統一を目前にした観光的行程も加わった凱旋紀行であったと思われる。
新聞、テレビの無い時代であり、信長公は富士山をこの甲州征伐で初めて見たと思われる。諏訪で論功行賞を行った後、4月に入り甲府に到着、4月10日に甲府を出発し、天正10年(1582)4月12日の頃の信長公記(第15巻)の記載を見ると現在の山梨県本栖湖付近から、静岡県富士宮市の朝霧高原に入り、武田家討伐の成功と雄大な富士山をはじめて見た嬉しさからか、小姓と馬を走らせて楽しんだことや、白糸の滝、上井出の人穴、その昔、源頼朝公が富士の巻き狩り際に陣を張った狩宿などに立ち寄ったと記されている。当時は浅間大社も戦火にあい、社殿等も無い状況であったが、近くに信長公が宿泊する寝所を、随行する徳川家康が贅沢に造り、これに喜んだ信長公は太刀などを礼として与えた。現在も富士宮市の浅間大社東側には、御殿町と呼ばれる場所があり、当時、信長公が腰掛けた「富士見石」など、信長公が富士の麓の富士宮市(大宮)を訪れたと思わせる史跡や地名が残っている。
翌日13日に、信長公は富士宮市を出発し、清水区の江尻、掛川、浜松、を経て、4月21日に安土城に帰陣することになったとされる。
これらの信長公記から、自分が信長になったつもりで推察すると、信長公が最も恐れた戦国大名は甲州武田氏であり、事実、長篠の戦い(1575)で武田氏に大勝しているが、実に甲州征伐までに7年間もの時間を要していることからも、周辺事情はあるものの、警戒に警戒を重ねていたことが伺え、戦局がほぼ決定している3月10日に安土城を出発していることからも判る。その様な中、武田氏滅亡の喜びは大変なものであり、その折に生涯ではじめて見る富士山は、信長公の心に深く残ったことは、信長公記に記載がなくても容易に推察できる。

火縄銃

(4)信長公の亡骸の行方

安土城到着から約1ケ月後5月15日、甲州征伐や富士宮市(大宮)での宿泊接待のお礼にと、徳川家康と穴山梅雪を安土城に招いている。この時、家康の饗応役となったのが、その僅か2週間後に「本能寺の変」を起す明智光秀であることは、日本史上では有名なことであり、一説にはこの時の饗応の支度が、将軍家の接待のようで行き過ぎであると、信長公が激怒し、光秀を叱責したとも伝えられている。
天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀の謀反により、京都本能寺で信長公は没するが、亡骸の行方は今以て謎であり、日本史最大のミステリーとも言える。
信長公が、天下統一を目前に思わぬことで命を絶つことになるが、本能寺で明智軍の大軍に囲まれ絶体絶命になった時、当時としては革命児であり奇抜な発想豊かな信長公であれば、「是非も無し・・・」の後に「我が首を富士の麓へ・」と僅か1ヶ月半前の、霊峰富士を眺めた凱旋紀行を思い出し、日本一の富士の麓から今後の戦国の世の行方を見守ろうとしたのでは!?と考えるのは、私だけではないような気がします。

住所:419-0313 富士宮市西山671

信長公首塚平成24年11月  静岡県富士宮市観光課


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